Pochipedia_Bone of war

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EX.負債論2:かんたんにユーラシアの帝国史をたどる。シルクロード編🐾。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Last_Glacial_Period

序②) いまから7万年まえのユーラシア大陸は、そのほとんどが雪と氷に閉ざされていた。この時期に、人々の祖先=サピエンスが乾燥したアフリカ大陸から、ユーラシア大陸の各地に移り住んだと考えられている。北極を中心に北半球のほとんど=ヨーロッパ全土〜シルクロード〜北京〜北米まで氷の世界*だった。その一方、赤道から熱帯地域の海面は、今よりも100m前後も低くて海岸や湾には広い低地が広がっていたという。

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サピエンスの世界進出が始まるかたわらで、50万年まえからユーラシア各地に移り住んでいた原人(北京原人ジャワ原人)が、7万年まえから姿を消していく。40万年まえの旧人(ネアンデルタール人とデニソワ人)は、サピエンスと同じ時代に生きのびていたが、1万年まえからの温暖化あと彼らもその姿を消した*。


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▶︎シルクロードと中国の帝国史

最後の氷河期がおわると、海面の上昇によって「広い海岸の低地(浅瀬)」は徐々に失われた。その一方で、山谷の氷河が溶けて、それまで氷原・雪原の下に隠れていた地上=土壌が現れる。これをきっかけに、動植物が北に移動をはじめる。そしてユーラシア大陸の東側でも、サピエンス=ヒトの祖先たちが水辺に沿って、その活動範囲といっしょに生活圏を広げていった。

古代の東アジアでも、人々が「広くて豊かな耕作地帯」のための覇権争いや、凶作にともなう大飢饉にいくども直面した。華夏から殷(商)、そして周の時代へ。初期の中国では「遼河・黄河流域の耕作地帯」における内戦や、西域(中央アジア)や北域(モンゴル・シベリア)の遊牧民族*との領土紛争、東域(朝鮮半島と日本列島)ならびに南方(ベトナム_東南アジア)との同盟あるいは武力外交など、地方と中央政府、そして周辺諸国のあいだで権力闘争がエスカレートした。

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≫ Hua–Yi distinction (中華思想): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3

  • *冬季に土地が凍結してしまうような遼河流域より北では、大規模農業による食糧確保→発展がむずかしい。遊牧民族は必然的に豊かな村との交易を求めたが、一方で耕作地の支配層は「自由な交易」をとおして統治に介入されることを警戒する。そこで当時の最善策として「長城(侵入防止の壁)」を建設させたり、農民と遊牧民間の交流を監視するか制限された。

▶︎ 始皇帝あとの帝国。

秦の始皇帝は「強力な軍政=中央集権の監視社会化」を試みたが、それは短期間で崩壊した(BC221-BC206)。内戦を終結させた漢の武帝は、シルクロード楼蘭を征服下におきながら「塩と鉄の専売」をとおした国力回復を試みる(BC206-AC6)。傭兵制になって民の兵役負担は軽くなったが、汚職や腐敗、そして重税→反乱や、各地の武装蜂起など、中国はふたたび動乱に突入。三国志の時代(AC184-280)のあいだに6千万人近くの総人口が一旦、半減、あるいはそれ以下に落ち込んだ。

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https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Cologne_Germany_Flock-of-sheep-01.jpg

長城(壁)の向こう側でも「気候変動」や「蝗害(バッタの大量発生)」あるいは「紛争の長期化→交易の停滞」が、遊牧民の生活に危機をもたらす。その打開策として彼らは騎馬部隊(機動力)による「オアシス都市〜交易ネットワーク」の実効支配をめざすようになっていた。長城の内と外で軍馬や物資の需要が高まり、そしてその闘争はさらに大規模化してゆく。遊牧民族*のあいだでも、血族のもとに月氏匈奴(遼河西のモンゴル系部族)、東胡(遼河東の匈奴に滅ぼされた部族)など、大きな勢力によって興亡がくりかえされた。

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https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Grasshopper_2_(PSF).png

やがて、青銅器に代わって鉄器の製造技術が普及。軍隊の標準装備に、兵士たちへの手当(通貨の起源)。常備軍であれば配置先までの物資調達。軍馬、鉱山、食糧の生産地。それらすべてをつなぐネットワークが必要になるにつれて、しだいに「オアシス都市=中継地」とは、交易(経済)と同時に、軍事拠点としての顔も持つようになっていた。科学や技術などの最新情報はじめ、隣国に関する情報を収集するのにも役立った。

また、都市とそのネットワークは共通のことば(言語)を経由して、人々がそれぞれの「宗教上の世界観(価値観)」を更新、あるいは拡散するときの経路として役立てられた*。宗教施設の建立、それら経典の翻訳と公文書化、宗教団体や一般信者へのサポート(福祉)。古代の支配者、あるいは官僚たちはみずからが「熱心な信者」として、宗教を擁護する側に立つことで、人々の持続的な信頼を獲得する。そして、その結束によって国家=都市とネットワークの維持、再建、拡大がこころみられた。

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シルクロードとは、科学技術の知識を普及させた道でもあった。ヒッタイト(トルコ人)によりあみだされた鉄製品の量産技術は、中国(周王朝)やインドで"はがね"の製造技術にまで高められた*。そしてアルタイ山脈(古代における鉄鉱石の産地)で暮らしていた突厥=ギョクテュルク、トッケツにも受け継がれる。彼らは、カザフスタンとモンゴルにまたがる広い空間を552年から軍事力で支配していた。

西暦540年ごろ、世界は火山噴火(火山灰)による「急激な寒冷化」に直面し、この影響は600年ごろまでつづいたと考えられている*。暖房のための石炭、薪木(まきぎ)の確保や、冷害による凶作と家畜の世話が深刻になる。突厥の建国〜東西分裂(552年-582年)あと、シルクロードの交易ネットワークは「部族長(ハーン=Khaan)」たちが統率するたくさんの遊牧民族によって、それぞれコントロールされるようになった。東側ではウイグル、西側ではカルルクと呼ばれた。騎馬民族による襲撃が多発した地域では、彼らをフン族タタール人などと総称して、これに警戒した。

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Image: https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Snow_covered_mountains_outside_of_Salang_tunnel_in_Afghanistan.jpg#mw-jump-to-license

▶︎唐とイスラム帝国のはざまで。

次にシルクロードを支配した帝国が「吐蕃(とばん,Tŭbō, Tŭfān, bod chen po)」である。吐蕃の王族は「チベット高原」を本拠地に、およそ30年あまり(633-667)のあいだに遊牧民社会(カルルク)、ヒマラヤを超えた北インドベンガル湾の諸国、中国内陸エリアにまで支配圏を拡大させる。同時に彼らは「唐王朝の社会制度」を導入して、巨大になった領土のコントロールを試みる。ところが、留学で知識を身につけた「大論=吐蕃の大臣や官僚たち」が、王族に代わって権力を掌握。すると吐蕃でも、唐王朝内でも、たびたび「王族内」あるいは「王・官僚」間のもめごと(主導権争い)が、内乱の原因になった。それらの解決策として「仏教哲学(その世界観)*」による政治改革が試みられたものの、対立や戦争の中で「宗教」そのものも敵対視=シンボル化されてゆく。

  • 唐王朝下では「禅宗(中国武術で有名な嵩山少林寺における哲学的な柱の1つ)」など仏教諸派、そのほかゾロアスター教からイスラム教まで西洋の一神教が伝播。その一方、異教徒の排斥運動なども起きて道教(中国古来の思想)なども見直される。
  • 吐蕃では「禅宗」と「インド仏教」の宗教論争あと、インド仏教が国教化すると国内が宗教対立におちいった。1300年代に「チベット語版(チベット仏教)」が完成するまで、混乱がつづいた。インド→チベットを経由した仏教は、モンゴル、朝鮮半島、日本列島にも到達する。また仏教弾圧をきっかけに「中国国外への布教運動」が活発になり、東南アジアからの「海上の交易ルート」を併せて、仏教信仰が琉球列島、日本列島に上陸した。