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EX.負債論2:かんたんにユーラシアの帝国史をたどる。シルクロード編🐾。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Last_Glacial_Period

序②) いまから7万年まえのユーラシア大陸は、そのほとんどが雪と氷に閉ざされていた。この時期に、人々の祖先=サピエンスが乾燥したアフリカ大陸から、ユーラシア大陸の各地に移り住んだと考えられている。北極を中心に北半球のほとんど=ヨーロッパ全土〜シルクロード〜北京〜北米まで氷の世界*だった。その一方、赤道から熱帯地域の海面は、今よりも100m前後も低くて海岸や湾には広い低地が広がっていたという。

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サピエンスの世界進出が始まるかたわらで、50万年まえからユーラシア各地に移り住んでいた原人(北京原人ジャワ原人)が、7万年まえから姿を消していく。40万年まえの旧人(ネアンデルタール人とデニソワ人)は、サピエンスと同じ時代に生きのびていたが、1万年まえからの温暖化あと彼らもその姿を消した*。


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▶︎シルクロードと中国の帝国史

最後の氷河期がおわると、海面の上昇によって「広い海岸の低地(浅瀬)」は徐々に失われた。その一方で、山谷の氷河が溶けて、それまで氷原・雪原の下に隠れていた地上=土壌が現れる。これをきっかけに、動植物が北に移動をはじめる。そしてユーラシア大陸の東側でも、サピエンス=ヒトの祖先たちが水辺に沿って、その活動範囲といっしょに生活圏を広げていった。

古代の東アジアでも、人々が「広くて豊かな耕作地帯」のための覇権争いや、凶作にともなう大飢饉にいくども直面した。華夏から殷(商)、そして周の時代へ。初期の中国では「遼河・黄河流域の耕作地帯」における内戦や、西域(中央アジア)や北域(モンゴル・シベリア)の遊牧民族*との領土紛争、東域(朝鮮半島と日本列島)ならびに南方(ベトナム_東南アジア)との同盟あるいは武力外交など、地方と中央政府、そして周辺諸国のあいだで権力闘争がエスカレートした。

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≫ Hua–Yi distinction (中華思想): https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3

  • *冬季に土地が凍結してしまうような遼河流域より北では、大規模農業による食糧確保→発展がむずかしい。遊牧民族は必然的に豊かな村との交易を求めたが、一方で耕作地の支配層は「自由な交易」をとおして統治に介入されることを警戒する。そこで当時の最善策として「長城(侵入防止の壁)」を建設させたり、農民と遊牧民間の交流を監視するか制限された。

▶︎ 始皇帝あとの帝国。

秦の始皇帝は「強力な軍政=中央集権の監視社会化」を試みたが、それは短期間で崩壊した(BC221-BC206)。内戦を終結させた漢の武帝は、シルクロード楼蘭を征服下におきながら「塩と鉄の専売」をとおした国力回復を試みる(BC206-AC6)。傭兵制になって民の兵役負担は軽くなったが、汚職や腐敗、そして重税→反乱や、各地の武装蜂起など、中国はふたたび動乱に突入。三国志の時代(AC184-280)のあいだに6千万人近くの総人口が一旦、半減、あるいはそれ以下に落ち込んだ。

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https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Cologne_Germany_Flock-of-sheep-01.jpg

長城(壁)の向こう側でも「気候変動」や「蝗害(バッタの大量発生)」あるいは「紛争の長期化→交易の停滞」が、遊牧民の生活に危機をもたらす。その打開策として彼らは騎馬部隊(機動力)による「オアシス都市〜交易ネットワーク」の実効支配をめざすようになっていた。長城の内と外で軍馬や物資の需要が高まり、そしてその闘争はさらに大規模化してゆく。遊牧民族*のあいだでも、血族のもとに月氏匈奴(遼河西のモンゴル系部族)、東胡(遼河東の匈奴に滅ぼされた部族)など、大きな勢力によって興亡がくりかえされた。

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https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Grasshopper_2_(PSF).png

やがて、青銅器に代わって鉄器の製造技術が普及。軍隊の標準装備に、兵士たちへの手当(通貨の起源)。常備軍であれば配置先までの物資調達。軍馬、鉱山、食糧の生産地。それらすべてをつなぐネットワークが必要になるにつれて、しだいに「オアシス都市=中継地」とは、交易(経済)と同時に、軍事拠点としての顔も持つようになっていた。科学や技術などの最新情報はじめ、隣国に関する情報を収集するのにも役立った。

また、都市とそのネットワークは共通のことば(言語)を経由して、人々がそれぞれの「宗教上の世界観(価値観)」を更新、あるいは拡散するときの経路として役立てられた*。宗教施設の建立、それら経典の翻訳と公文書化、宗教団体や一般信者へのサポート(福祉)。古代の支配者、あるいは官僚たちはみずからが「熱心な信者」として、宗教を擁護する側に立つことで、人々の持続的な信頼を獲得する。そして、その結束によって国家=都市とネットワークの維持、再建、拡大がこころみられた。

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シルクロードとは、科学技術の知識を普及させた道でもあった。ヒッタイト(トルコ人)によりあみだされた鉄製品の量産技術は、中国(周王朝)やインドで"はがね"の製造技術にまで高められた*。そしてアルタイ山脈(古代における鉄鉱石の産地)で暮らしていた突厥=ギョクテュルク、トッケツにも受け継がれる。彼らは、カザフスタンとモンゴルにまたがる広い空間を552年から軍事力で支配していた。

西暦540年ごろ、世界は火山噴火(火山灰)による「急激な寒冷化」に直面し、この影響は600年ごろまでつづいたと考えられている*。暖房のための石炭、薪木(まきぎ)の確保や、冷害による凶作と家畜の世話が深刻になる。突厥の建国〜東西分裂(552年-582年)あと、シルクロードの交易ネットワークは「部族長(ハーン=Khaan)」たちが統率するたくさんの遊牧民族によって、それぞれコントロールされるようになった。東側ではウイグル、西側ではカルルクと呼ばれた。騎馬民族による襲撃が多発した地域では、彼らをフン族タタール人などと総称して、これに警戒した。

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Image: https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Snow_covered_mountains_outside_of_Salang_tunnel_in_Afghanistan.jpg#mw-jump-to-license

▶︎唐とイスラム帝国のはざまで。

次にシルクロードを支配した帝国が「吐蕃(とばん,Tŭbō, Tŭfān, bod chen po)」である。吐蕃の王族は「チベット高原」を本拠地に、およそ30年あまり(633-667)のあいだに遊牧民社会(カルルク)、ヒマラヤを超えた北インドベンガル湾の諸国、中国内陸エリアにまで支配圏を拡大させる。同時に彼らは「唐王朝の社会制度」を導入して、巨大になった領土のコントロールを試みる。ところが、留学で知識を身につけた「大論=吐蕃の大臣や官僚たち」が、王族に代わって権力を掌握。すると吐蕃でも、唐王朝内でも、たびたび「王族内」あるいは「王・官僚」間のもめごと(主導権争い)が、内乱の原因になった。それらの解決策として「仏教哲学(その世界観)*」による政治改革が試みられたものの、対立や戦争の中で「宗教」そのものも敵対視=シンボル化されてゆく。

  • 唐王朝下では「禅宗(中国武術で有名な嵩山少林寺における哲学的な柱の1つ)」など仏教諸派、そのほかゾロアスター教からイスラム教まで西洋の一神教が伝播。その一方、異教徒の排斥運動なども起きて道教(中国古来の思想)なども見直される。
  • 吐蕃では「禅宗」と「インド仏教」の宗教論争あと、インド仏教が国教化すると国内が宗教対立におちいった。1300年代に「チベット語版(チベット仏教)」が完成するまで、混乱がつづいた。インド→チベットを経由した仏教は、モンゴル、朝鮮半島、日本列島にも到達する。また仏教弾圧をきっかけに「中国国外への布教運動」が活発になり、東南アジアからの「海上の交易ルート」を併せて、仏教信仰が琉球列島、日本列島に上陸した。

EX.負債論1:かんたんにユーラシアの帝国史をたどる。メソポタミアとインド▷ユダヤ▷キリスト▷イスラム教への道。

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https://en.m.wikipedia.org/wiki/DNA_sequencing

序🐾) アフリカから世界へ。20世紀末、本格化したDNA研究は、どのように「ヒト」が世界に広がったのか解き明かにした。河川や海の沿岸、あるいは山脈にそった地下水脈(雨と雪解け水)をたどるように。平原の長距離移動に適応した身体と、複雑なコミュニケーション能力を用いて、彼らは「寒冷地」から「熱帯雨林」そして「海峡の向こう岸(諸島)」に、その暮らしの空間を広げていった*。

アフリカからユーラシア全体、そして南北アメリカまで。この無数の集落と、それをつなぐ道(あるいは航路)のうち、最適なものが、のちに世界有数の「交易ネットワーク*」に発達してゆく。

  • *自然災害や気候変動、戦争、そして時代〃〃の需要(ほしい物の変化)によって、その居住空間は都市に発展したり、あるいはネットワークごと衰退→ときに放棄されて、それが遺跡として発見されたりする。

▶︎メソポタミア文明

チグリス川とユーフラテス川。2つの大河の岸辺で栄えた都市文明(メソポタミア文明)は、このような条件を全て満たしている。西が地中海、南にペルシャ湾(アラビア半島)、東にインドとパミール高原(東アジアにつながるルート)。北には北欧へとつづくコーカサス地方と。この地とは交易ネットワークの中心として理想的な場所でもあった。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88

近代になってヨーロッパの考古学者たちは、この地を「肥沃な三日月地帯」と名づけた。大規模な農耕政策によってもたらされた莫大な富が、宮殿や神殿における権力の源になった。同時に、この土地は動乱の舞台にもなる。気候変動による農業への打撃と飢餓が発生したり、ときには精巧な道具を携えた軍団が登場し、そのたびに当時の権力システムがゆるがされた。

印欧語族=この土地から出発する多彩な言語が、中東全域とインド、地中海沿岸や北欧ロシアと広い範囲に散らばる理由とは、この地域でくりかえされた動乱が背景にある。その中心になった都市国家も1つだったことはない。アッシリア帝国バビロニア帝国。ペルシャ帝国。オスマン帝国など、軍事力を基礎にした武力外交が地域の交易ネットワークを支配していた。

▶︎インダス文明

その余波はインダス川(Hindus)を超えて、インド亜大陸にもとどく。ヒマラヤ山脈を背にした広大な耕作地帯の支配権が、同じように「いざこざの火種」になった。そのかたわら統治者たちは、地域の信仰(神話と考え方*)を取り込みつつ、あるいは共有しながら「階級制度=個人データ管理+監視システム(カースト)」に基づく統治に向かう。

  • インド哲学(ヴェーダ)で「宇宙をあやつる力=人々をあやつれる力」として、この価値観のもとで「理想の姿(手本にされる人)」になるために、人々は私利私欲を捨て修行するか、修行者たちをサポートすることが推奨された。→ヴェーダの世界観は、ヒンズー教や仏教に組み込まれ引き継がれた。

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https://en.m.wikipedia.org/wiki/Himalayas

軍事と、経済と、信仰(カースト)による統合政策=総力戦システムは、とうとうマガダ国マウリヤ朝(紀元前322-紀元前185)の時に、インド統一を達成させる。最期の敵対国を壊滅させたあと、アショーカ王は次にインド国内における「戦闘モード=総力戦システムの解除*」を試みる。無益な殺戮が禁じられ、積極的な宗教施設への資産寄贈が推奨された。

  • *国内情勢と隣国との軍事バランス、その変化の中で、彼の統治政策は約80年で途絶える。しかし、そのアイデアは東南アジア、東アジアの諸国に形を変えて取り入れられ、神殿建設ほか国民的な宗教観の形成がうながされた。

▶︎ユダヤ教_キリスト教_イスラム教の誕生

ユダヤ人の歴史は、A)メソポタミア(都市国家の近郊)から、地中海の東岸に移住した人々(ヘブライ人)の物語*からはじまる。この東岸地域はかつてカナンと呼ばれていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E8%AA%9E
&
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https://en.m.wikipedia.org/wiki/Tower_of_Babel

B)その新天地は、ながらくエジプト王朝の政治的な影響下に置かれたが、紀元前1200年のカタストロフ=鉄器普及による戦乱の中で、彼らはその支配から離脱して、同地にヘブライ人+ユダヤ教徒*の交易国家(古代イスラエル)を建てた。

  • 出エジプト(Exodus)。長らく支配された年月の中で、彼らの結束力は「自らの歴史=ヘブライ人の歩んだ物語」の共有することで保たれた。この物語=旧約聖書であり、この物語を共有する人々のすべてがユダヤ教徒になる。

ところがエジプトに代わって、C)中東のアッシリア帝国が、その次にD)新バビロニア帝国、そしてE)ギリシャ帝国がこの地中海東岸に軍事力を行使。そのために、彼らの国家は継続的に主権を失いつづけた。さらに代わったF)シリア・セレウコス朝、そしてG)ローマ帝国との戦争の結果、ユダヤ教徒たちは古代イスラエルを国土ごとを失うという苦難に直面する*。

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https://commons.m.wikimedia.org/wiki/Wheat

H)ローマ帝国軍による支配下古代イスラエルで、ながらく人心を惑わせた容疑*で1人のユダヤ教徒が囚われ、断罪された末に処刑される。しかし、人々は、彼(イエス・キリスト)が「人々の苦難=不条理」をひきうけながら、さらに生き返った存在であるとして、彼とその仲間や家族のエピソードをクチコミで語り伝えた。

  • ユダヤ教の聖職者たちは、彼が「奇跡的な治療、苦痛や苦悩の解消、瀕死の者の蘇生、数千人の難民に対する緊急食糧の供給」などの行為について、神の名を借りてほどこしたと問題視した。

I)このエピソードは、ローマ軍の帰還兵や難民、あるいは商人たちによって地中海沿岸と北欧諸国に持ち帰られた。ひときわこの信仰は、ヨーロッパ諸国の市民(解放奴隷)の支持を集める。それがキリスト教のはじまりである。その影響力が大きくなるに連れて、権力者の下で、公文書化=地域版の新約聖書の編集や、国教化もすすめられた。

J)一方で、ユダヤ教は「悪いイメージ(排他主義や高利貸しなど)」で語り継がれて、これに遺伝や血統を連想させる「まことしやかな偏見」がくみ合わさった。国土を失ったユダヤ教徒は、世界各地のちりじりになった共同体の中で信仰を強固にするか、あるいはユダヤ教からキリスト教に改宗するなど生き方*を模索するものの、どちらもその血統を追跡され、プロフィールが特定されつづけた。*ユダヤ人=元ユダヤ教徒の子孫もふくむ。

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https://en.m.wikipedia.org/wiki/Star

K) 諸外国による軍事侵攻と、交易都市における帝国支配の歴史。この状況に向き合ってきたアラブの人々は、その支持をアラビア半島の商人出身・預言者ムハンマドに向けてゆく。彼のルーツとは、スパイス貿易(東南アジアとの航路)を主軸に、東ローマ帝国とも交易権を持っていたメッカのクライシュ族*だった。

しかし彼は、その一族と戦争してまで「イスラム教(多神教の廃止→唯一神*への帰依」を実現し、そしてイスラム信者同士の無利子制度(イスラム金融)をすすめながら、しだいに人々の信頼を勝ちとっていく。彼の死後、イスラム教は人選において主に血統を重んじる「シーア派」と、主に戒律の実践を重んじる「スンニ派」に分かれるが、その信者は地中海南岸から中東、東南アジアにまで拡大していった。

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https://en.m.wikipedia.org/wiki/Arabian_Sea

イスラム教は、シルクロード交易の東西ルート(ヒマラヤ山脈の北側)にも広がる。その唯一神(アッラーフ=ヤハウェ)と「メソポタミア東部における信仰*」が、その源流で1つであることから、商人のあいだにもイスラム教が伝え広げられた。西暦7-9世紀の中国・唐の時代には、交易を経由してイスラム教の文化と同時に、儒教や仏教施設とならんで礼拝所も建設されたようだ。

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λ=(∵`{預言者ムハンマドのルーツ=クライシュ族=スパイス交易=東南アジアとのつながりって知ったところは「ふりかえる」ではなく「たましぬぎ」たん。

つづく🐾"

ポチ超訳:負債論、8→12章に関連するスピンオフ(歴史)を拾っていく👟。

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→ 著者Dグレーバーさんは、あらかじめ読み手に前提知識があっての上で話をすすめていく。→そのため何度も読み返したり、あちこちネット検索して「ポイント整理」する必要にせまられた。

負債論=ものの「貸し借り」から「市場」や「貨幣」が生まれて、戦争や植民地時代を経由しながら、どのように「世界規模の経済」が成長したのか‥を再検証した書籍。

負債論=それまでの「経済学の常識(印象にもとづいた"うやむや"な論理)」を、考古学の発掘(証拠A)や古文書*の解読(証拠B)などによって洗い直した結果、過去から現在にかけて「経済=貸す側の支配 × 借りる側の服従する心理」を明らかにした上で、その未来について同時に「問い」も投げかけている。‥ё { 説明=ざっくり簡単に。

→*古文書=貸し借りの記録が多く、神話や伝説も「借金」という形の支配と暴力、からの解放や、解放者への恩(解放者の権威)が不思議とつづられている。

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λ=(∵`{なかなか地理がアタマに入らないので、地球の歴史にまで道草してるし。ため息。‥7章までの要約も、すこし手を入れ直したいが、これは後回しでよい。
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ポチ超訳:第7章までの負債論🐾"_ざっくりポイントだけネタバレの寸止めで(1~26)に整理した。λ=(∵`{Xマス🎄休憩。

負債論:ざっくり解れば読むかも知れない人に向けたポチ要約🐾。

【お金=便利な発明(物々交換の代わり)ではない】

1. お金の起源=物々交換ではない。経済学の理論家たちは、考古学や文化人類学(地球上の文化研究)、認知科学🐾の成果を知りながら、反して語ってみたり、なぜか無視している。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E7%A7%91%E5%AD%A6
{ 認知科学までは言及してない、少し、はなしを盛ってみた。


2. お金の起源=貸し借り=負債(借金)の覚え書きである。
3. その証拠物として、木製の割札や、粘土板の文字記録などが発掘されている。

【リアルな物々交換=商取引ではない】

4. 現実の物々交換とは「ふっかけ合い→交渉決裂」ならまだしも「交換の強要」だったり、最悪は「修羅場」にもなりかねない場である。→シビアな交渉ではなく、信頼関係の土台がない者同士のあいだで突発的におきる風習である。→では、どこから物々交換のイメージ(学者のとっぴな発想)は生まれて定着したのか→9,10,11。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Rai_stones

【宗教は金銭のいざこざにも介入した】

5. 古代の経済問題は、時代がすすむにつれて、各地の「都市宗教」により統括されていく。→ユダヤ教キリスト教イスラム教、ヒンズー教、仏教などが社会秩序を束ねていた。

6. 信頼をよそおったケースを除いて、信頼ある人のサイン=お金の代わりにもなる。

7. 保存が効く食糧、宝石、貴金属=お金の代わりになった。
8. お金=6. 信頼の証 +7. 希少価値である.

【負債の帳消し=自由の語源である】

9. 現在と同様に、災害、戦渦、疫病の蔓延、経済パニックにともなう食糧不足の中で、奪い合いと一緒に「即興的な無償の助け合い」が現れては消えた。→助け合い(分かち合い)とさっきの物々交換とはまったく違う。

10. 即興的な無償の助け合い=非常時だけではなく、日常の仕事や生活における場面(はかどる仕事や問題解決)ほか、アイデアの実現(技術革新)のときにも「親密なメンバー」の間でも起きている。

【資本主義者も共産主義者も錯覚した】

11. 凶作や突発的な災害、そして戦争。物々交換もどきの出来事は、むかしも今も社会が「経済パニック(食糧難)」におちいるたびに見受けられる。それは被災者同士の分かち合い(+即興的な助け合い)になる場合もあれば、奪い合い(騙し合い)をともないながら、やがて正常化すると自然に消えてしまう。→ある人は体験や伝聞をとおして「原始的社会=ユートピア」と見なし、ある人は混乱(カオス)から「市場」に進歩したイメージをふくらませたのではないか。

大勢の人々によって共有された「経済パニック(食糧難)」にまつわる記憶や記録が、資本主義や共産主義のインスピレーションと動機になったのではないか。→資本主義の調整力(神の見えざる手)と、共産主義=分かち合いを制度化させる発想はほぼ同時期に生まれている。

12. 災害や戦争にともなって王や宗教指導者たちによってなされた「借金(債務や上納義務)」の帳消しが「自由(母のもとに還る)」の語源である。→王や宗教指導者たちの権威を高めた。

【文明化と一緒に女性は自由を失った】

13. 文化人類学のアプローチは、原始的な都市国家像をさかのぼると、戦闘技能にエキスパート化した「武装集団の用心棒化」の姿を明らかにする。→権力者=長老の初夜権、略奪に代わる納付義務、軍事力による保護など。

14. それでも世界各地で、悪政に際して「商人の市場離れ(=商業の衰退)」や「(民の)集団脱走」や「(女性の)隣村脱出」が許容されていた。→それは、共同体全体の評価=存亡にもつながり、抑制する力になっていたのかもな🐾。

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https://en.m.wikipedia.org/wiki/Tower_of_Babel

【古い都市国家はまず3つを仕切った】

15. 古典的な国家は、災害や戦災の孤児と遺族に対する「a.福祉」や、市民と奴隷のあいだに「b.待遇の格差(可視化された差別)」をきずいたり、一方で「c.公営ギャンブル」への誘導→民の散財→借金漬けを試みられるなど、人々をさまざまな「負債の鎖(+恩恵)」につなぐことにも尽力していた。→タバコの箱数や本数、カジノのメダルなどが貨幣の代わりになって狭い範囲に人々をひきとめた。→公の歴史とは、それぞれの人々のその人生を支配する流れまで書き記すことがない。

16. 古代〜中世において「戦争による捕虜」や「奴隷」とは、社会秩序の中で「意志を剥奪された存在=生きる屍」としてあつかわれた。ぎりぎり生きている姿に対する優越感(あるいは社会的地位の下落に対する恐怖感)が、国家にたいする古典的な市民感情(信頼感)を支えていた。

17. 大航海時代=植民地時代、世界各地の人身売買(負の近代史)の背後には、ヨーロッパで大量生産された「希少金属(レアメタル*)の大量輸出輸入」が世界各地でバブル=経済のかく乱をひきおこした面と、一方で「家父長制」の下における「婚姻=女性の相互贈与(文化)」が関係している。*→当時のアフリカにおける真鍮(しんちゅう)や銅はじめ、世界各地で大量の銃(機械)の需要が高まった。

18. レヴィ=ストロース(文化人類学の先駆者)は「婚姻=贈与」と解釈したが、この発想は男性の「借金返済」や「刑罰の身代わり」を、親族女性(姉や妹)が受け入れるべき「さだめ(宿命)」とみなしたり、そして同時に周りからは「贈与物」にみなされて背負わされる時にも、この価値観が流用されたなど、贈与=言葉足らずである。

さらに有力者が貧困層の家の子ども(女性)を財力で備蓄し、自らの親族女性の身代わりにする慣習の源にもなっていたり、あからさまではないにしても、女性を従わせるための暴言や暴力がともなっている(→血債)。

19. 中世から近代にかけて、機械のない時代、奴隷=人間ではなく「機械の代わり」のように酷使される商品でしかなかった。→この奴隷貿易の時代に「借金漬けの男→奴隷商人への転職→親族の売却→自らの売却(破滅と死)にいたる逸話=ゾンビの物語」があみ出されている。

【債務奴隷制は2つの道をあゆんだ】

20. およそ5千年まえから「都市国家」が軍事力と経済力を向上させた一方で、しだいに「女性の居場所」は限られていく。メソポタミア文明の初期には、まだ女性が公職や医療商業の場で活躍していたが、都市国家が「女性の服装(市民と奴隷の区別)」への統制にのりだす。また家父長制(債務をきらう男性中心社会)の風潮が深まる中で、しだいに「女性の居場所=家庭(監視・管理しやすい場所)」といった価値観が必然化した。

21.中東からインドでは「債務の帳消し」自体が廃止されて、人々は「カースト(家系×女性÷恒久的な階級制度)」の下に置かれた。カースト(上位と下位)とアウトカースト(内側と外側)の発想。→その考え方は「交易」と「宗教(シャーマニズム儒教や仏教)」の歴史を経由、共有しているためか東アジアでも似ている。

22. 一方で西側の古代ギリシャでは、貴族が「市民の支持=名誉」を得るために「平民男性の参政権(選挙権)」を認可した。しだいに市民の発言権が増すと、その声を反映させた改革によって「貴族の経済的な優位」がゆるがされた。→利子や負債の規制のほか、武術競技へのギャンブル導入、宮殿女官に代わつて国営による買春施設の運営など、さまざまな場面で「通貨(市場原理)」が伝統的な価値観に介入。

貴族の特権文化=解放奴隷である男性市民(男児)へのパワハラ+性的暴行*が禁止されたが、家父長制の影では「貧困女性の性奴隷制度」が持続。+*伝統的な男尊女卑が規範化する中で「性暴力」と「LGBTのイメージ」もまた結びつけられ易かったのかも🐾。
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http://o-miwa.co.jp/

貴族特権から市場原理へのシフト=初期の民主主義社会とは、貴族が独占権と名誉をうしなう一方で、平民男性がその財力(市場)を足場に彼らと肩を並べる時代だった。

古代ローマ(所有からの自由という発想)】


23.古代ローマ帝国は、地中海沿岸と中東におよんだ「❶軍事力」のほか、キリストの処刑をきっかけに広まった「❷信仰(キリスト教の国教化)」の2つが有名だが、3つめとして「❸法律(ラテン語で記されたローマ法)」が、もっとも世界に普及している。

24.ローマ法の中でも「所有権」という考え方は、各国の法体系や、国際法の土台にもなっている。所有権とは「モノ(あるいは空間や時間)」を自由にする「ヒト」が誰なのかを決めたルール。この関係をじょうずに説明できるのが「奴隷と主人」理論である。

ローマ帝国時代、災害や戦争の影響で、イタリア半島にも多くの難民や捕虜が流れ込んだ。→奴隷の仕事=収穫人や配送人(ロバの世話係)だけではなく帳簿管理や現場監督にまで多様化。→暮らしの中で仕事に応じていざこざ(罰金や契約トラブル)を解決するための法律(ローマ法)が複雑化。→奴隷契約=ローマ市民になる抜け道としての賃金契約(市民権を獲得するための手段)としても受け止められ方が変化した。

25.ヒトの「自然の権利=自由」と、身体の「自由を制限されたモノ(奴隷)」におよぶような大きなテーマ。心と身体の自由(その限度)という問いが、ローマの❶覇権戦争や❷信仰(カソリック教)を経由してヨーロッパ全域へ、そして、そのあとも中世〜近代にわたって世界に拡散していく。→やがて自由=債務チャラ(母のもとに戻る*→12)の方は忘れられてしまい、人々は自由といえば、liberal(ローマ語,"奴隷ではない"が由来)+freedom(ゲルマン語, friend由来)の自由をあたまに浮かべるようになった。

26.中世における保守化の中で、学者たちは「ローマ法の復刻」をこころみる。ローマ帝国の皇帝たちが信じた「支配の根拠=ドミニオン(dominion, 支配領域における絶対的権力)」にもとづいて、ヨーロッパの諸領主たちは「liberal (処刑をふくむ自由裁量権)」を主張し、その支配下で、ほそぼそと「freedom(≒平等,約束,友愛)」の精神も受け継がれた。またキリスト教の主と権力を結びつけた「ロードシップ(Lordship, 神託による統治力)」があみだされて、これらが近代に世界規模の経済、武力外交と同時にひろがってゆく。

🐾‥あやふや感あり。xwx"{さらに休憩。

負債論:第7章に突入。くりかえし〃メモを取っては読み返す作業。✂︎" お金(貨幣)の歴史といっしょに、古代の中東、アフリカ、ヨーロッパ、アジアを旅してる感覚。

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‥なんか近頃、色んな分野で「この話し=実はうんねうんね、うんなうんなだった」とか、「あれ=かくかくしかじかであることが分かった」ってニュースとか書籍が、たてつづけに発表されてる。

ダイヤモンド博士。
リムランド理論→リリーパッド戦略。
ネアンデルタール人とサピエンスの関係。
オキシトシンバソプレシンが何とか。
マルトリートメント=社会規模の負の遺産化。
大分岐(ポメランツ)。
そして負債論。

それらの「手品のタネ明かし」のような内容(部分〃〃)は、何か「闇中の希望のあかり*」に相当するところがある。今日のニュースでは、日本の「子ども〜若い人の自殺率が高いままの傾向」が伝えられてたりする。*→クソジジイがあみだしてしもたクソジジイな環境=あなたが命(対価)を払う値打ちが無いでしょう的なメッセージ性があるところを✂︎抽出してみたい。‥ё { 本の紹介をしたいってことだな。
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負債論へのリンク🐾=古代史への関心と歴史的な背景→考古学、文化人類学への道🐾

▶︎ 紀元前1300年:バードギール(古代エジプトペルシャ建築の冷却・換気塔システム)。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%AB

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▶︎ 紀元前6〜西暦15世紀:ローマ→ビザンティン建築
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E5%BB%BA%E7%AF%89

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↑1555年:聖ワシリイ大聖堂は、ロシアのイワン雷帝が、イスラムモンゴル帝国との戦勝を記念して建立させた独特な集合建築。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A4%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

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↑1573年:イントラムロスとは、フィリピン(マニラ)の中心にある旧イスラム商人の広大な居留地区。16世紀にスペイン支配の下で再開発され、WW2における日米軍の市街戦によってその植民地建築遺構の多くが破壊された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%82%B9


▶︎ 16世紀末:イタリア発のバロック建築。←異端審問や魔女狩りで疲弊したヨーロッパで、カトリック教会主導のもとで豪華な建築ブーム。→ルネッサンス運動の中、ミケランジェロラファエロが活躍。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E5%BB%BA%E7%AF%89

▶︎ 18世紀後半:フランス発の「新古典主義」建築←古代ギリシャ共和制ローマ共への関心。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8F%A4%E5%85%B8%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%BB%BA%E7%AF%89

▶︎ 18世紀末からの「言語学」:ヨーロッパ諸語とインド諸語のルーツ研究はじまる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6

▶︎ 1820年:19世紀のはじめ、ミロのヴィーナスが地中海の海底から引き揚げられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%81%AE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9

▶︎ 19世紀:世界の植民地化、グローバル化を背景に「文化人類学」の研究がスタート。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%AD%A6
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↑世界各地の植民地時代に建築されたコロニアル様式の建造物。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%AB

▶︎ 20世紀:科学にもとづいた「考古学」研究が本格化する。

更新中:買わずに📖債務論(¥6000)を図書館から借りて、ポチ版の超訳🐾作成に挑戦。前⚽️代表の本田圭祐氏、「トリクルダウンは無い」のピケティ氏も推薦。

▷2018年初めのNHK特集(欲望の経済史)を視聴。→ メソポタミアの「くさび形文字=貸し借りを記した簿記」と知ってびっくり。

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http://www.ibunsha.co.jp/0334.html

▷「債務論(saimu-ron)」は、2008年のリーマン・ショック(低所得層向けの貸付モデルの破綻→低所得層の資産喪失&株暴落の関連企業に対する国家的救済)をきっかけに、あらためて文化人類学者によってまとめられた経済史。

▷真面目で勤勉な人にとって常識的な「借金は返さなくてはいけない(表ルール)」とは対象的に、第1章の冒頭では「少額の借金とは銀行による支配を招くが、銀行がつぶれる程の多額の借金とは銀行を支配する力になる(裏ルール)」という欧米のことわざを紹介。

▷著者は、文化人類学の知識(+証明法)をもちいて「物々交換*=貨幣のルーツ」ではなく、「貸し借りのはじまり=貨幣のルーツ」らしいことを紹介。* →古代ギリシャの時代かそれ以前の世界各地で、アダム・スミス(経済学)からマルクス(資本論共産主義)まで、大きな勘違いしていると。

▷経済学では「貨幣(お金)」の発明によって「マーケット(経済)」が活性化して、それ以前の「物々交換=ムダと停滞が支配する原始的な世界」から進歩してきたのだと、人々に説明した。

▷一方で、ほぼ同じ時期に歩みだした共産主義では「物々交換=信頼がつかさどる理想郷」と位置づけられて、その信奉者の中には「暴力による従来の支配システムの破壊(革命)」を実践して、いちから世界を作り直そうと、人々に呼びかけていた。

▷この2つについて、文化人類学のまなざしからでは、どちらもまちがっていると指摘。→世界各地の文化風習を観察すると「物々交換の場」とは特殊なケースであり、その場かぎりの「ふっかけ合い」から「ぼったくり」あるいは「色仕掛け(美人局)」にまで発展する「例外的な場」であって、商売の先行きを念頭に置いた「日常的な市場=経済の原点」ではないと。

▷では「物々交換の幻想」は、どこから生まれたのか。「当時の人々」は、何でそうだと結論づけたか。→いまでも災害や大不況(通貨価値の下落)のときには、しばしば物々交換が、自然発生的に行われる。→人々は、ふたたび秩序が回復するまでのあいだ「物々交換(闘争or共助の様子)」を目の当たりにしたか、見聞きしたのかも知れないと。